この人に聞く!vol.10 小原流神戸支部 服部 豊珠 先生
服部 豊珠 先生
現・神戸支部参与。現・兵庫県支部連合会相談役。平成4年~9年まで旧・神戸東支部支部長。
小原流のお膝元、神戸にお住まいの服部豊珠先生。昭和26年(1951年)に入門され、その後、三世家元 豊雲先生の直門として現在も家元教場で研鑽を積まれています。そんな服部先生に、豊雲先生そして家元教場の思い出をお伺いしました。
昭和26年に小原流入門
-最初はお母さまのおすすめで小原流に入門されたそうですね。
その頃はお茶とお花は身に付けて当たり前の時代でしたので、近くでお教室を開かれていた田中豊恵先生に師事いたしました。
田中先生のお母さまも小原流の方で、二世家元 光雲先生に習われていたと思います。
田中先生は素敵な先生で、一生懸命にお稽古いたしました。
-どのような経緯で家元教場に通われるようになったのですか?
私は田中先生のご自宅でお稽古させていただき、田中先生は、お母さまの時代からお家元のお教室に通われていました。
ある時、お家元の小原豊雲先生から田中先生にヨーロッパ派遣の要請があったのです。
今は研究院の先生方がヨーロッパやアメリカなどに派遣されてご指導に行かれていますが、その当時はまだ指導員や講師と言った役職名は無かったと思います。
田中先生はその要請をお受けになられヨーロッパへご指導に行かれたのですが、そうすると私のお稽古が出来ません。
そこで、田中先生から「私が留守の間はお家元の教室に通いなさい」と言われて通うようになったのがきっかけです。
その頃は家元会館(昭和37年竣工)が出来る前でしたので、お家元のお家でのお稽古でした。
ご自宅でしたので、家元会館の教場のように広くは無く、そこまで多くの方は来られていなかったと記憶しています。
当時、私はお勤めをしており、仕事終わりの夕方にお稽古に通っておりました。
そしてヨーロッパから田中先生が帰国されると、お家元の教室から田中先生のお教室に戻りました。
そこから1~2年ほど経ったころ、今度は東南アジアへのご指導に田中先生が発たれることになり、その頃は家元会館が誕生していましたので、私は御影の家元教場でお稽古することになったのです。
家元教場で豊雲先生からご指導を受けられる服部先生
豊雲先生からの言葉
-家元会館での教場は多くの方が学ばれていたのですか?
会館には大勢の方が来られていました。
私は一週間に1回、月に4回通っていました。
ご指導は、豊雲先生、大阪から上田先生が来られていて、みんな和やかにいけていましたが、その当時の私は少し悩みがありました。
学ばれている方々の中で私は比較的若く、他の皆様は技術も経験もある先輩ばかり。
私から見るととても自由に作品をいけているように見えました。
それに比べ、当時の私は花型ばかりで自由な花をいける事が出来なかったのです。
先輩方みたいに「型から離れていけたい!」という悔しさがあったのか、お手直しに来てくださったお家元に「私は花型しかいけられません。」と初めて自分からお話しさせていただき心情を吐露してしまったのです。
その際にお家元は一言、「急ぐな。急いだら先が伸びん。」と仰ってくださったのです。
この一言はとても深く、趣深かったです。
「あ、これで良かったんだ」と安心し、誰かの真似をしなくても自分の花をいければいいんだと感じました。
その一言の重みを今になってつくづくと噛みしめています。
-豊雲先生からお褒めの言葉もあったのですか?
「これは今までの中で最高の花だ。」という最高の誉め言葉をいただきました。
一回だけですけどね(笑)。
私は写景が大好きで、当時、山で見た美しいシダの風景をいけたかったのです。
それで、自分で採ってきたシダとお花屋さんのシダを使い、シダ三種を使った作品をいけました。
ほどなく豊雲先生がお手直しに来られ、作品をご覧いただくと「三種のシダを使ってこれだけ入ったら、今までの中で最高の花だ。」と仰っていただけたのです。
この時は飛び上がるほど嬉しく、今でもその時の情景をしっかりと覚えています。
ちなみに山で採ってきたシダですが、実は全然知らない種類でした。
家元にお聞きすると「これは、ちりめんシダ。」と教えてくださいました。
御影・盛花記念館の屋上庭園の風景
-お褒めの言葉もあれば、逆にショックを受けた言葉も?
すごくショックな言葉をいただいたこともありました(笑)。
先述しましたが豊雲先生が「急ぐな」と仰ってくださったので妙な安心感があったのでしょうか。
自分なりの形みたいなものができ、そこから何年も誰もしないような花をずっといけておりました。
そんな中、ある日の手直しの際に家元が何も言わずジッと私の作品を見つめられたのです。
そして一言、「上手いのはよく分かった。」とだけ仰り、すっと次の方の手直しに行かれました。
その言葉と雰囲気がとてもショックで(笑)、次のお稽古の日は「今日は何をいけたらいいの?どうしたらいいの?」と、ショゲながら仲の良かった方に聞いた事を覚えています(笑)。
考えてみると「いつまで同じ事を繰り返すんや。いい加減次に進め」と言われたんだなと今なら思えるのですが、当時はとてもショックでした。
いけばなをしていると、嬉しい事やら悲しいことやら、いろいろありますね(笑)。
田中先生との別れ~専門教授者に
-田中先生が日本を離れる度に、豊雲先生のお教室に行かれていたのですね。
田中先生の東南アジア指導が最後でした。
実は、東南アジアから帰国されて3~4か月後にご病気が見つかり、お亡くなりになったのです。
田中先生は私にとってかけがえのない方で、本当に素敵な方でした。
とても悲しい別れでしたが、お通夜に豊雲先生がお越しになられていたのを覚えています。
田中先生が亡くなったあとはお家元のお教室にお世話になっていたのですが、田中先生の死が私にはあまりにも悲しくて。
その時だけですね、お花を辞めようと思ったのは。
お稽古に行きながら毎日どうしようかと悩んでいたのですが、そういう気持ちでいける花は手直ししてくださる先生に何かを伝えてしまうのでしょうか。
ある日、豊雲先生の助手として来られていた大阪の上田先生から「悲しくても辛くても、田中先生に恩返しするには花を続けるしかないんだ。」と言われました。
その言葉のお陰で気持ちを持ち直しお稽古を続けていたのですが、ある日突然お家元から呼ばれました。
私の名前なんてお家元はご存知無いだろうと思っていたので、びっくりして慌ててご挨拶に行きました。
緊張しつつお家元のご自宅のリビングでお話ししていましたら、家元が私に「田中先生のお教室を継ぎなさい。」と仰ったのです。
驚いたのと同時に、その時の私は、とてもじゃないですが田中先生のお教室を継ぐ自信が無く、「私は田中先生のように出来ません。」とお断りしたのです。
すると豊雲先生は、「田中先生のようにならなくて良い。人間は何か1つ良いところがある。先生の真似をしなくていい。」と仰ってくださいました。
その言葉を受け、お教室を継ぐことを決めました。
余談ですが、この教室は兵庫県尼崎市に文化教室として新しく設立され、豊雲先生に指導依頼があったそうです。
しかし、豊雲先生は田中先生に「ここは小原豊雲の名前を使わず、あなたのお名前で開きなさい」と仰られ、田中先生は豊雲先生からお教室をいただいたような形になり開校されました。
そのような経緯があったので、お家元も私に跡を継ぐように仰られたのかもしれません。
現在の服部先生~いけばな人生を振り返って
-現在も御影の家元教場に通われているのですね
宏貴お家元にとても丁寧なご指導を賜り、平生記念館に社中の方と通っています。
今はしなくなりましたが、昔は社中ともよくお出かけしたりしていました。
山桜が綺麗から見に行こうとか、兵庫県の峰山高原とか、自然が好きでみんなで出かけていましたね。
趣味のグラウンドゴルフは今も楽しんでいます。
旧・網走支部から送られた写真(網走支部・支部青年部による阪神大震災で被災した神戸へのエール)
-服部先生は、昭和26年の小原流入門から70年以上にわたりお花とともに人生を歩まれています。
今、いけばな人生を振り返ってみるといかがでしょうか?
お稽古の時はとても楽しかったですが、支部長など責任を持つとやはり楽しいことばかりではなかった事を思い出します。
また、偶然ですが今日(服部先生へのインタビュー時)は阪神大震災から28年目の1月17日です。
いけばな人生を振り返ってみると、楽しい事も、嬉しい事も、悲しい事も、悔しい事も、色々と経験しました。
ですが、そういう事があってこその人生ですし、それを乗り越えてこそ今があります。
多くの仲間達とも出会い、今、「小原流のいけばなって本当に楽しい」と改めて思います。
若い皆様にお伝えできるとすれば、「続けてこそ本当の良さや楽しさが得られる」ということでしょうか。
家元教場・アトリエにて豊雲先生とともに(服部先生は、豊雲先生の後方2人目)
今回は、長年小原流いけばなと共に人生を紡がれている服部豊珠先生に、三世家元 小原豊雲先生、そして家元教場の思い出をお伺いさせていただきました。また、ご自宅までお伺いさせていただいたりと、お忙しいなかお時間を頂戴いたしました。お元気に様々な質問にお答えいただき、改めて感謝申し上げます。本当にありがとうございました!
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